石蔵屋

「いしくらスイミング」「スポーツプラザ・RAXY」の歴史

門司港にあった石蔵屋の弁当工場

門司駅前に移転した駅弁当工場の跡地にできたいしくらスイミングクラブ、スポーツプラザRAXY


北九社研協門司区社会科同好会 編(昭和60年発刊)より抜粋

 RAXYの前身はいしくらスイミング、そのいしくらスイミングの前身は北九州駅弁当、またその前身は明治24年(西暦1891年)、門司港駅の鉄道開通と同時に設立し駅の弁当屋と旅館業を営んでいた石蔵屋。それももう(2017年、平成29年)現在で126年となりました。その間、北九州、門司の本当に沢山の方々にお世話になって参りましたことを心より感謝申し上げます。そんなお世話になったお一人お一人に心から恩返しをしたいとの思いでいしくらスイミングクラブ・スポーツプラザ・RAXYの運営を開始いたしました。地域のひとりでも多くの方が心身ともに健康でありますように尽力して参りたいと思います。

この門司港駅物語は北九社研協門司区社会科同好会 編(昭和60年発刊)より抜粋したものです。社会科の授業で使用されました。この中の”石蔵”というのが「いしくらスイミング」「スポーツプラザ・RAXY」の 創業者石蔵康作です。

(最終更新日:2017/02/13

駅弁ことはじめ

駅へ弁当を運ぼうとする石蔵屋の人たち

駅弁を売る時に来ていた「はっぴ」

 石蔵屋・駅弁づくりにはげむ人たち

石蔵屋・駅弁づくりにはげむ人たち

当時の駅弁の包装紙(部分拡大)

  (門司港駅展示場にて許斐宗孝さん撮影)

当時の駅弁の包装紙(部分拡大)
  「愛せよ風景、美化せよ国土」は時代を感じさせる  (門司港駅展示場にて許斐宗孝さん撮影) 

当時の駅弁の包装紙  (門司港駅展示場にて許斐宗孝さん撮影)

  「弁当、べんと ー。 幕の内に、うなぎ弁当、おすしは、いかがですか。」「関門名産のウニのお土産は、いかがですか。」「ジュースにアイスクリーム。ビールのおつまみは、いかがですか。」こんな売り声は、今では、新幹線や特急の列車の中でしか聞かれなくなりました。

旅行には、いろいろな楽しみがありますが、中でも、その地方の名物になっている駅弁を食べることは、いちだんと楽しいものです。こんな楽しさを与えてくれる駅弁というものが、九州で売り出されたのは、いつ頃、どこの駅からだったのでしょうか。
それは、 1891年(明治24年)4月1日から、門司駅(今の門司港駅)の第2待合所に『石蔵屋』が茶店を出し、食事や新聞雑誌などを売り始めたのが、そもそもの始まりです。

「いや―。たいへんなにぎわいでしたよ。明治24年頃の門司は、豊前国企救郡文字ヶ関村と呼ばれ、人口約2,000人程度のさびしい村でしたが、駅付近だけは人々の動きがはげしく、活気がありましたね。」北九州駅弁当株式会社の石蔵康作社長さんは、祖父母から当時のことをよく聞かされたと、 一言一言、かみしめるように話してくれました。

明治24年頃の門司駅は、九州の玄関駅とも言われていました。門司から下関へ、また、下関から門司へわたる人たちは、九州と本州の間にトンネルがなかったので、当時の門司駅(今の門司港駅)でいったん汽車を降りて、ここから連絡船に乗りかえて関門海峡をわたっていました。

当時は列車の回数が1日わずか数回だったため、待ち合わせの時間がそうとう長かった関係から、たいくつしのぎや空腹をみたすために、お客は茶店をよく利用し、旅の疲れをいやしていました。まだ、博多駅にさえ茶店がない時でしたのに、門司駅ではすでにできていたのですから、九州の玄関駅と言われるのも当然のことでした。「弁当、弁当。」と、はぎれのよい声です。
「お弁当、二つください。」と、列車の窓から身をのり出すお客。「おつりがないようにね、 ハイニつ。」朱ぬりの細長い箱の中に山ほど積んだ駅弁を、あっちの客車、こっちの客車とホームを走り回って売っている若い男衆の、威勢のよい姿が見られるようになったのは、 1908年(明治41年)4月1日のことでした。

立ち売り弁当の始まりは、『にぎりめし弁当』だったとも言われています。最初の頃は、駅弁を利用する人たちが少なく、 1日にわずか10個ほどしか売れない日もあったそうですが、大正に入ってからは売れゆきが伸び、昭和になると、ますます駅弁を買う人が増えてきました。しかし、太平洋戦争が始まると、駅弁づくりの様子は変わり、苦とうの連続で言いつくせない努力を払ったものでした。

港をかかえた門司駅には、海をわたって外国へ戦争に行く兵士たちが集まるようになったので、兵士たちの弁当づくりが主な仕事になりました。兵士たちの出発時刻に間にあわせるため、昼も夜も休みなく、女手だけ(男の人たちは、ほとんど戦争に行っているため)で弁当づくりにはげみました。そして、弁当をわたし終えると、「無事に目的地に着きますように」「弁当のおかずは、兵隊さんたちに喜んでもらえただろうか」「お国のために戦ってくださる兵隊さんたち、ご無事で」などと願いながら、夕焼けの関門海峡を西へ急ぐ軍用船が小さくなるまで見送る日が多くなりました。

太平洋戦争も終わりに近くなると、駅弁も、米やおかずになるものが自由に手にはいらなくなったため、それはひどいものでした。駅弁の中身は、さつまいもを粉にして、それを蒸したものでした。
それでもお客は、「汽車の中で、おなかをすかせないですむ。」と大喜びし、ひと口ひと口かみしめて食べていました。

これでも、まだよい方でした。とうとう、外食券という特別な券を持っていないと、いくらお金を出しても買えない駅弁になってしまいました。
戦後は、さらにひどくなりました。食糧事情が最悪となり、いもの粉さえ手に入らなくなって、弁当をつくることが思うようにならなくなったからです。

それでも石蔵さんたちは、弁当の材料を手に入れるようにつとめました。時には、玄米に近い黒い米のご飯、おかずはせんぎり大根だけの弁当をつくることもありました。これでもたいへんなごちそうの弁当でした。つくる量も制限されていましたので、戦争中と同じように外食券を持っていないと買えませんでした。

九州で初めて駅弁を売り出したこの会社は、昭和56年で誕生90周年をむかえました。今では、小倉北区下富野3丁目に、北九州駅弁当株式会社として、1日平均5000個の駅弁をつくっています。